サリー便り3月編

<スペイン旅行余滴>

3月4日<水増しされているブロック肉>

3月5日<まず機械につながり延々と待たされる問い合わせ電話>

3月6日<留学生Dくんが照らし出す日本の大学入試の理不尽さ>

3月7日<Take note

3月10日<怪談を観賞する>

3月12日<ゆとりの時間と文化との裏腹の関係>

3月15日<花粉症の気配は、いまのところ無し。しかし、地球環境問題は・・>

3月20日<可愛い子には旅を・・・が通用しないお国柄>

3月21日<思考の柔軟性、創造性とは何か>

3月22日<職業で父親を語れる社会>

3月23日<英国の銀行を信じるな、余計なプライバシーは守ってくれるが>

3月25日<英国礼賛を疑う第2弾>

3月30日<今日のコンサートは最高>

<スペイン旅行余滴>

 オラはスペインでよく交わされる挨拶の言葉。日本語で言うと「よおっ」、「どうも」、英語で言うとHi(英国でいうとHi Ya)だろうか。覚えておくと便利。店にはいるとき、おはよう、こんにちわの言葉が咄嗟に出ないときなど。私たちは、スペインで4日目に、オラが気楽なあいさつであることを漸く認知した。グラナダでホテルの地下駐車場に車を停め、上に上がったらフロント前。そこで、フロントに「オラ」といわれ、一瞬ドキッとした。留めてはいけない場所に車を留めたのかしら、と。しかし、単に挨拶をされただけだった。子供は、スペインの人が日本に来て暴走族にあって「オラ、オラ、オラ」と脅かされても、なんて親しげな人たちだろうと勘違いするかもしれないといって喜んでいた。

3月4日<水増しされているブロック肉>

 今日は、スペインから持ち帰ったワインとスープをさかなに、留学生を呼んでパーティをひらく。スペインで食べたパンの上に豚肉のスライスをのせた料理をつくろうと、スーパーでブロック肉を購入する。日本で売っている一口カツ用の豚肉があるといいのだが、その手のものは英国にはない。

 家内が豚肉をフライパンで焼くとき、多くの水がでてきた。あとで、お隣さんにきくと、ブロック肉は水を吸い込ませて大きくみせているとのこと。まさに、水増しされているのである。

3月5日<まず機械につながり延々と待たされる問い合わせ電話>

 各種の問い合わせ電話が話し中でつながらないことは、英国ではまずない。しかし、つながってから、タスクによって、やれ1番をおせだの、5番をおせだのが続き、やっと窓口につながったかと思ったら、そこで「少々お待ち下さい」とのメッセージが流れだし、待たされることが珍しくない。そこまで、すべて、機械とのやり取りを強いられる。日本のように話し中ならまたかけ直そうと思うが、こちらは機械とやり取りをしてからでないと、窓口にもたどり着けない。しかも、漸く辿り着いた窓口で数分待たされて、しびれを切らして断念することがよくある。せっかちな日本人には不向きだと、いつも大体、勝手に怒っている。慣れてしまえばいいのだろうが、根気がいる。

 それにしても、機械による仲介は果たして利用者サイドにたったサービスといえるのだろうか。日本でも広がっているようだが、日本の場合は、もう少し、違っている記憶がある。詳しいところは忘れてしまったが。

 国によって、サービスの水準と質が異なることは当たり前だから、郷にいれば郷に従えということなのだが・・・・・馴染めない。

 それで思い出したのは、こちらで自信たっぷりに教えたりアドバイスしてくれる人や係りがいるが、半分しか信用してはいけないということだ。相手を選んで聞かないと、とんでもない情報を得ることになる。これも消費者の自己責任といわれるものだろうか。それで、トラブルになったら強力に自己主張すればいいのだ、そうだ・・・・。

3月6日<留学生Dくんが照らし出す日本の大学入試の理不尽さ>

 留学生のD君は、日本の大学入試にすべて失敗し浪人をしていたときに、丁度父親が英国へ転勤になるというので、英国へ一緒についてきた。なかなかの好漢である。人生の半分を海外で生活し英語での生活に慣れていることもあるが、その逞しさを日本の大学生にみることは希である。

 日本の大学入試は、こういう青年を排除していると思うと、無性に情けなくなる。偏差値で輪切りにされた同質のグループが大学に入ってきていると、大学にいて毎年、実感していた。適当に遊んだ偏差値60点、一生懸命勉強した偏差値60点グループなど多様な人材で混成されているならまだいいのだが、どうも違うようだと感じていた。

 偏差値の数点差、入試の1点差、2点差にどのような意味があるのかという、お馴染みの議論を蒸し返したくなる。60点で切るのではなく、一定の幅(たとえば45点から65点)の中でランダムに学生をとった方が大学としても、メリットがあるように思えてならない。特に、平均的な受験生(分布でいうと山の部分を構成する受験生)を対象に入試を行っている多くの私大にとってはそうだと、D君をみていて、強く思う。

3月7日<Take note

 7日のGUARDIAN紙にエール大ポーター客員教授の投稿記事があった。内容は、講義ノートがHP上に勝手に公開されている、それはあるベンチャー企業のビジネスになっている、このようなインターネットビジネスは大学にとって許し難い行為である、といったものである。これは大学の教員として私も無視できない問題である。いつも一番前に座って熱心に講義を聴きノートを取っていた学生が、そのノートのコピーを販売しているかもしれないとわかったとき、講師と学生の間の信頼関係は大きく揺らぐからだ。

 昔からあったことといえば、そうだ。しかし、私の大学で学生から次のような話をきたときは、正直びっくりした。つまり、先生の講義ノートが大学近くのコピー屋においてある、誰でもコピー代さえ払えば自由にコピーできるとの話だった。コピー屋が学生に頼んだのか、学生が売り込んだのか、両者の間の仲介者が仕組んだものなのかはわからない。

 それがインターネット上に公開されると、利用範囲が広がる可能性がある。コミュニティ内流通からグローバル流通になる。

 講義ノートのコピーによって危惧されるのは、学生が講義に出席しなくなることだ。講義に出ないことがなぜ問題かというと、自分の目と耳、頭を介して情報を得、記録する、そしてその過程で自分なりの考えや疑問をもつという学習機会が失われるからだ。出来上がったノートをいくら暗記して、いい点数をとっても(この手の手法は今の学生の得意とするところ)、何の意味もない。

 もちろん、どの方法で学ぶかは本人の問題である。仮にそのことを認めるとしても、問題は、それらコピーされたノートに関して、誰が作成したかの署名がないことである。写し間違い、聞き間違いが多分に含まれているノートコピーによる被害は、学生だけではない。講師そのものも被害者だ。なぜなら、本人が言ったり主張していないこと、本人の思想や主張と全く逆のことを講義で話したかのような記述がそれらのノートコピーには含まれている可能性があるからだ。

 それらの弊害を除去するには、記事の中でも書かれているように、講師自らがコピーされた講義ノートをチェックするなり、自ら講義ノートを公開する方法しかない。前者はそれらコピー提供者とタイアップすることを意味する。これは道義的に許されないことだろう。

 そうなると、後者の方法が選ばれることになる。しかし、昔の大先生のように、講義ノートを一言一句読む講義が許される時代ではない。講義の中では学生の視線や表情にこちらも触発され(逆の場合も多々あるが)、違った視点やロジックをその場で思いつき、講義の中で披露することもある。当然、そのときはぎこちないが、学生にとっては、講師の思考プロセスが外部化する格好の機会となる。その臨場的「知」、ダイアローグ的な「共有知」をどう記録として残せるのだろうか。

 その答えも実はある。ビデオにとってインターネット上で公開する、である。しかし、それは本質的な解決策なのか。インターネット時代が大学や講義に求める「変質」の要求について議論する場の必要性を痛感する記事だった。

3月10日<怪談を観賞する>

 サリー大Japanese Society主宰の日本映画鑑賞会に出かける。出し物は小林正樹監督の怪談(1965)。三国蓮太郎、新珠三千代、仲代達也、岸恵子、志村喬、杉村春子などが総出演の、ちょっと怖くて、ちょっとコミカルな映画である。部分的には観た記憶があるものの、通して観ることができて、よかった。カンヌで特別賞をとった映画だとある。その幻想的だが、笑えるシーンやストーリー展開を織り交ぜた演出が評価されたのだろうか。

 

3月12日<ゆとりの時間と文化との裏腹の関係>

 Clannadはアイリッシュ音楽を代表するフォークグループ。当初の活動にはエンヤも参加していた。そのボーカルMaire Brennan、エンヤのお姉さんでもある彼女のソロコンサートを聴きに、ロンドンに夕方からでかける。開演は7時半。間際までLSEのK君と食事をしていたので、タクシーで会場まで乗り付ける(運転の荒っぽいこと!)。

 コンサートは、「さすが」と唸らせるもの。声に艶、張りがある。彼女がひくハープもよかった。半分はゲール語で歌ったので、観客の大半もわからなかったはず。これもいい。アルバムでしかみたことがない顔は、予想と違って(アルバムの写真はどれも明確でなかったり硬い表情を強調するアングルからのもの)、エンヤとそっくり(血は争えない)。

 ただし、難点が2つ。1つは席。値段が高い(といっても税込みで20ポンド、4千円もしない)席らしいが、前から3番目で、表情はよく見えたものの、ステージが高いので、首がつかれた。英国の劇場は外観だけでなく、内部も古いので、肉体的苦痛・忍耐を強いられることが多い。

 もう1つは、一番前の中央に陣取った酔っぱらい。ステージに向かって、話やコンサートの流れに棹さすコメントを発する。3回目くらいまでは、観客も黙っていたが、4回目のときは「黙れ」のコールがあちこちから沸き起きた。その後、立ち上がってズボンの中にシャツを入れるところで、係が側にしかとすわり何かを語りかけている。窘めているのかと思っていたら、やがて警察官がもう一方のサイドに座り、曲が終わると同時に、連れ出された。対応の早いこと。

 結局、コンサートが終わったのは10時半。文化ビジネスを支える背景に、時間的余裕があることをあらためて思う。

 

3月15日<花粉症の気配は、いまのところ無し。しかし、地球環境問題は・・>

 福岡に来てから、花粉症に悩まされるようになった。その手の症状とは無縁と思っていたが、それが思い上がりだということを毎年3月に、骨身にしみて実感している。海外で遭遇するトラブルと一緒だ。

 それにしても、私のような鈍感な人間が花粉症になるというのは、地球環境の悪化に伴う人類の不適応症状の普遍性を示唆しているのだろうか(これまで私が犯した罪の罰があたっているとの意見もある。思い当たることが確かにある??)。今日受信した、あるMLからのメールによると、観測史上最高の暖冬を記録した米国で、春には記録的なかんばつに見舞われるとの予報を連邦政府が発表した、という。英国の新聞でも、Food has become the single most important international isuueと表現されていたが、アルマゲドンは一番身近なところから人類を襲いはじめたということかも。

3月20日<可愛い子には旅を・・・が通用しないお国柄>

 自国の常識、他国の非常識を日々発見する生活にも、そろそろ飽きてきたのか、少々のことでは最近驚かなくなった。それでも、今日、京大からサリー大に来られていたM先生宅に家族でお邪魔し、話をしていて、「へえ」と思ったことがある。M先生は昨年6月に来られた。家族は娘さんの入試等があって一足先に昨年末に帰国。その際、中3の娘さんが一人で日本まで帰ったらしい。途中、シンガポールで3時間ほどの乗り換えがある便だったそうだ。

 しかし、このようなことはシンガポール航空だから引き受けてくれたのであり、英国の飛行機会社だったら、まず無理だったかもと話された。真偽のほどは不明だが、私も聞いたことがある。未成年が一人で海外へ出向くなど、こちらでは非常識な話で、まず飛行機会社サイドが禁止しているだろうとの話を。

 親の子供に対する保護責任の違いは、子供の学校への送り迎えに端的にみられる。学校の門までは親の責任、一歩門にはいると、あとは学校の責任となる。だから、子供が登校し終えると学校は門を閉ざし、外部からの侵入者に対する(といった風情だ)。そこには明確な一線が引かれている。子供達だけで登下校する(大都市では交通機関を使って)日本でお馴染みのシーンは、こちらでは非常識な、親が保護責任を放棄した所業と映る。

 

3月21日<思考の柔軟性、創造性とは何か>

 正解がある問題を如何に速くたくさん解くかが問われるのが日本の教育。小学校時代を思い出す、速さと正確さをドリルの練習問題で競わされたことを。いまも、その事情は変わっていないようだ。

 近年、注目されているのは知能テストではなく、思考テストの方だという。思考テストでは、正解がある問題を解くのではなく、たとえば「自転車のチェーンが外れたとき、どうすればよいか。対処法をできるだけ多く列記せよ」といったテストをする。

 子供の話は、依然として、算数が自分たちはできる、こちらの子たちはできないといった類のものだ。その話の中で聞いたことだが、簡単な引き算ができないとき、先生のどうすればいいのかとの質問に、こちらの子供達は「先生に聞く」、「親に聞く」、「計算機で計算する」、「指を使う」などの、日本で言えば頓珍漢な回答で答えるという。この話をきいたとき、我彼の思考パターンの違いを思わずにはいられなかった。知恵をだし持ち寄って問題を解決する、あるいはいろいろな方法を考えて問題に対処するといった、実社会でもっとも必要な資質がどちらで育まれるかは、いうまでもない。

 

3月22日<職業で父親を語れる社会>

 車の故障を先週発見した。また、パソコンの液晶画面の調子もいまいちだ。そんな話をしていたら、パソコンがこわれたらサイモンのお父さん、車は誰々、電気製品は誰々のお父さんに頼めばいいよと、子供がいう。一億総サラリーマン化したと揶揄される日本では、何をしているかよりも、どの会社に勤めているかでしか父親は語れなくなっている。それに比べ、英国の社会はわかりやすい。職業を「何をする仕事なのか」で語れる余地が大きく残っている証である。もちろん、そのことは、社会の階層構造と表裏一体の存在であり、格差や不平等さが維持されていることの裏返しでもあることを度外視はできないが。

3月23日<英国の銀行を信じるな、余計なプライバシーは守ってくれるが>

 今日、英国の口座を持つ銀行から残高通知が来た。よくみると、おろしてもいない50ポンドが引き落とされている。丁度その日は、エヤーチケットの引き落としのため、あわてて1300ポンドを入金しに行った。銀行のカードはもっているが、口座からカネをカードで引き出したことはいままでない。そのつもりもないし、今後もないだろう。しかも、入金をしにいったのであり、たかが50ポンドを引き出す理由などない。

 話が難しそうなので、こういうときは妻に頼るのがベストと思い、妻に電話してもらう。日本の感覚だと、自然のことだ。ところが、相手は、私ではないと苦情は受け付けられないという。アホか!と思う。

 同じ世帯を営む夫婦でも、口座の名義が違えば、他人と言うことらしい。夫婦といえどもプライバシーを守るべきだが、それは他人がとやかく口出しすることではないはず。日本人の私にとって、夫婦一体という日本的利便性を阻止する英国の銀行の対応には、閉口せざるを得ない。

 この事件の顛末は、24日に来るはずのあちらからの電話が来なかったので、後送りになった。乞うご期待。

3月25日<英国礼賛を疑う第2弾>

 2月編では、ロンドンの車掌さんの現状を紹介し、徒に英国を礼賛する論に対して懐疑の目を向けた。今日ロンドンで目撃した、ロンドンバスに勤務する車掌の姿を以下、紹介し、昔ながらの英国礼賛論に再度、疑いの目を向けたい。英語が達者でなさそうな旅行者は大きな荷物を抱え、バスに乗り込んだ。大きなスーツケースは荷物置き場を表示してある場所に置いた。ところが、そこは大体、車掌が立っている場所。丁度、バス後部の出入り口で、二階につながる階段の側。車掌は、荷物をどけろ、そこは自分の場所だからと、その乗客にいう。ほとんど理不尽な言いがかりである。

 似た光景を思い出した。米国でみた光景である。仕事、職に上下、尊卑の差がなかった時代、バスの車掌さんは他の仕事と見劣りしない、誰も卑下しない、りっぱな仕事だった。親父も車掌だった、自分はごく自然にその職に就き勤めている・・・・それ以外の理由はいらなかったし、それ以外の人生があることなど願わなかった。多分、そういう時代には、英国礼賛論にでてくる車掌さんもいたのだろう。しかし、いまは確実に、職に尊卑の差がある。世間的に下とみられる仕事についた人にとって、自分の仕事に誇りをもつなど思いもつかない。その屈折した気持ちや姿勢が、顧客に対する意固地で理不尽な対応となってあらわれる。

 英国が、思いの外、米国に近い国になりつつあることを一部の新聞は指摘する。そして、短期の旅人ともいえる私にも感じられるところだ。米国に近い、というよりも、市場・競争原理を至上価値とする資本主義国に共通の姿かもしれない。英国礼賛論が私にとって許せないのは、そのことを、意図的か否かは別して、覆い隠す機能を果たしていることであり、また、英国のその変節に気づかない鈍感さに他ならない。

3月29日<モノとの接点にしか興味がない若者?>

 実は、22日から姪が遊びに来ている。中学校を卒業したばかりの15才。私は親戚に冷淡な、というよりも親族だろうが何だろうが関係ないと思っている人間なので、わざわざ親族を呼ぶようなことはしない。来たければ勝手に来ればいいと思っている。それで今回もあちらが勝手に来るというので世話をしてるのだが、どうも何のために来たのか、本人もわかっていないようだし、彼女に英国行きを勧めた周りも何も考えていないようだ。

 ロンドンに行ったり、歴史的な観光地を案内するが、どうも本人の関心は買い物にしかない。気持ちはよくわかる。最初は、見るものがすべて珍しく、特に日常的に接する機会が多い商品が、素敵に見える(慣れると、どこにでもある商品なのだが)。

 海外にくると、日本での生活スタイルや選好が顕在的にあらわれると思う。たとえば、海外に来たからモノが欲しくなるのではなく、海外に来たことでモノに対する欲求が顕わになると。その意味で、海外で買い物漁りに忙しい日本人の姿は、日本国内の性向が強化されただけといえなくもない。

 そうでないと、かつて貧しい時代に日本人は海外で買い物に熱心だった様子が、今日にあっても不変であることを、うまく説明できない。

 所詮、それが日本の文化なのだろうか。私の娘は海外での生活を珍しいと感じないはずだが、モノ、買い物に私から見ると異常な執念を燃やす。そういう年代だといえなくもないし、こちらの若い連中も一緒だとの意見もきく。だが、しかし、モノとの関係が、日本の場合、より親密で単線的な気がする。

3月30日<今日のコンサートは最高>

 ロンドンまで、ハープ演奏の女性ペアSILEASのコンサートにでかける。丁度、福岡のシンクタンクのT君が英国に来ていたので同行してもらった。会場は古い洋館(変な表現)の中の、中規模のホール。スチール製の椅子が並べてあるだけ。周りの壁にも席がついていて、壁に張り付いた状態で聴ける。集まったのは30名程度。入場料は8ポンド。いつものように、堪能できた2時間だった。特に今回はビールを片手に聴けたので、満足度は非常に高かった。